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第1章 第十七話

【それでも世界は回っている -OZ-】 第1章「目覚めの草原」 第17話「クロネの村へ」 【前半】 ──丘を越えると、景色が変わった。 遠くに、わずかに立ち上る煙が見えた。 茂みに覆われた谷の間に、石積みの小さな屋根がいくつか並んでいる。 「……あれが、クロネの村?」 「せや。変わっとらん……わいが見た時と同じ姿や」 ラセルの目が懐かしそうに細められた。 彼はこの村を何度か訪れたことがあるらしい。 「昔はもうちょっと賑わってた。 でも今は、風の影響でだいぶ人が離れたって聞いとる」 ドロシーは、遠ざかっていく草原を振り返った。 風は穏やかだった。名前を吹き消すような風は、ここまで届いていない。 小さな川を渡り、谷の入り口までたどり着いたとき、 ひとりの獣人がこちらに気づいた。 「──あら? ラセルさんじゃないですかい」 猫のような耳と尾を持つ、老いた雌の獣人。 手には干した野草の束を抱えている。 「クロ婆。まだ元気そうでなによりや」 ラセルが帽子を取って笑うと、婆は目を細めて頷いた。 「そちらの子は?」 「旅の連れや。名は──」 「ドロシーです」 ドロシーが名乗ると、婆の目が一瞬だけ揺れた。 「……名乗れるのかい。珍しいねぇ、最近は名のない子ばかりでね……」 「……?」 婆はすぐに笑ってごまかした。 「まぁまぁ、立ち話もなんだし、あたしんとこ寄ってきな。 薬湯くらいは出せるよ。手も、具合が悪そうだしねぇ」 右手を見て、ラセルが少し眉をひそめたが何も言わなかった。 ふたりはクロ婆の案内で村の中へと進んだ。 道の両脇には、人の気配がほとんどない。 家の戸は閉じられ、庭先には干からびた花や崩れかけた棚が残されていた。 「昔はこの村、風の記録をつける役目を担ってたのさ。 “名前と風”の関係を記した古帳もあったっけね」 「残ってますか?」 ドロシーが尋ねると、婆は肩をすくめた。 「さぁね。古い倉にしまってあるけど、今じゃ誰も開けとらん。 カビ臭くて、虫が出るしさ」 その倉というのは、村の北端、断崖近くにあるらしい。 今日はもう遅いので、明日案内してくれるということになった。 クロ婆の家は、瓦屋根の小さな一軒家だった。 木の床はきしんでいたが、清潔に保たれていた。 「さ、座ってな。あんたには薬湯を、そっちの子には、少し薄めたのを出すよ」 そう言って婆が立ち去ると、ドロシーは静かにラセルを見た。 「……この村、なんだか、少しだけ……怖いね」 「うん。風がない代わりに、時間が止まっとる感じがする」 ラセルの声もまた、どこか慎重だった。 そして、ふたりは、明日を静かに迎える準備を始めた。 【後半】 ──クロネの村の夜は、息をひそめたように静かだった。 クロ婆の家から見える通りは狭く、石畳も土に沈みかけている。 ところどころ、誰かが掃いた痕跡はあるが、人の姿はほとんど見えない。 木造の家々は皆、低くて古い。屋根には苔が生え、土壁には細い亀裂が走る。 それでも、崩れずに立っているのは、誰かが手入れを続けてきた証だった。 ──この村は、生きている。けれど、息を潜めている。 薬湯を飲み終えたドロシーは、縁側に出て夜風に当たっていた。 風はここまで届かず、空気は重たいほどに静かだった。 すると、背後から足音。 振り向くと、若い雌の獣人がひょこりと顔を覗かせた。 「ごめんなさい、おじゃまして……新しいお客さんって聞いて」 彼女はキツネ獣人で、まだ十代後半くらいに見える。 淡い茶色の毛並みに、尻尾の先が白く光っていた。 「あなた、名前……あるのね?」 「え?」 「……村の子たちのほとんどは、もう名前を忘れてるの。 “風のこと”があってから、こっちでもどんどん記録が消えてって」 「……君は?」 「わたしはまだ、ミユって覚えてる。忘れないように、毎晩声に出してるの」 笑いながらそう言うミユの顔は、どこか寂しげだった。 「お屋敷の近くにある“名前の倉庫”、明日行くの?」 「うん……婆さんが案内してくれるって」 ミユはしばらく黙っていたが、ぽつりとつぶやいた。 「……気をつけて。あそこ、今は“誰も開けちゃいけない場所”って言われてる」 「どうして?」 「……入った人が、名前を……急に、思い出せなくなったって話があるの。 ひとりはそれ以来、ずっと寝たきり。声も出せなくなっちゃって……」 そのとき、村の奥から低い叫び声が上がった。 「──またかっ!? あの家から煙が──!」 ミユがはっとして振り返る。 「……エンじいの家だ! ドロシー、来て!」 ラセルがすぐに現れた。 「なんや、騒ぎか? ドロシーちゃん、足元気ぃつけて!」 ふたりは走った。 細い路地を抜け、竹垣を越えた先に── 火のように立ち上る白煙と、倒れた老獣人の姿。 「エンじいっ!」 ミユが駆け寄る。 その先にいたのは、ワシミミズク獣人の老人。 白く濁った目で何かを訴えようとしながら、口を震わせていた。 「……名前が……消える……また……風が、戻ってくる……」 ドロシーが近づこうとしたとき、突風のような空気が村の一角を揺らした。 ──風が、吹いたのだ。 誰もが動きを止める中、ラセルだけが前へ出て、地面を押さえるように手を広げた。 「土の……流れが乱れとる。これは、自然の風やない」 その言葉と同時に、エンじいの目がかっと開いた。 「──やつが……まだ、この村に……“風の魔導師”が……!」 その言葉を最後に、老人は気を失った。 静まり返る夜のなか、焚き火のように明滅する火種が── ドロシーの胸の中で、赤く、熱を持って揺れていた。 ──風は、まだ止んでなどいない。 そしてその“気配”は、すぐそこまで来ていた。 《第17話・完》


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