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第1章 第十三話

【それでも世界は回っている -OZ-】 第1章「目覚めの草原」 第13話「狸の道連れ、ぬくもりの風」 「はぁ……ほんまに、よう晴れとるわ」 草原の丘の上で、狸獣人のラセルが大きく息を吐いた。 太陽はすでに空の真ん中に近く、風は柔らかく、空気は温かい。 「なぁドロシーちゃん、ちょいと休もか。お昼にちょうどええ時間やし」 「うん、ありがとう」 二人で座った丘の上からは、これから進む草原の道が遠くまで見渡せた。 昨日までのぼくなら、きっとその広さに飲まれそうになっていた。 でも、今は隣にラセルがいる。 それだけで、少しだけ心が強くなれた気がしていた。 「おっしゃ、ちょっと待ってな。ええもんあるんや」 ラセルがごそごそと背中の荷物を探り出し、ふくふくの手で取り出したのは── ふっくらと丸まったおにぎりのような食べ物と、紐で巻かれた葉っぱの包み。 「保存食やけどな、うちの地元で“狸だんご”言うて評判のヤツやねん。中にちょっと甘い豆入っとって、疲れとるときにちょうどええんよ」 「わあ……いただきます!」 ひとくち頬張ると、もちもちした生地の中からほくっと甘い風味が広がった。 ほんのりあたたかい。気のせいかもしれないけど、心までぽかぽかする味だった。 「……美味しい。すっごく」 「そりゃよかった。君みたいな細い子は、いっぱい食べなあかん。草原の風、思ったより体力奪うさかいなぁ」 ラセルは笑って、自分の分をゆっくりと食べ始めた。 口に運ぶ手の所作も丁寧で、食べるたびにふうっと鼻から息を吐くその姿が、妙に色っぽかった。 ──あ、また変なこと思ってる。 ぼくは思わず視線を逸らした。 ラセルの隣にいると、時々胸が変なふうにくすぐったくなる。 あの丸いお腹も、ちょっと垂れた目元も、手の厚みも── 全部、やさしさでできているように見えて。 気づくと、ラセルがこちらを見ていた。 「……どないしたん? 顔、赤いで?」 「えっ!? な、なんでもないっ……!」 「そかそか。ほな、食べ終わったらちょいと昼寝でもするか? 腹いっぱいなると、よう眠くなるやろ」 「……あの、ラセルって、どうして旅してるの?」 気恥ずかしさをごまかすように尋ねたぼくに、ラセルは少しだけ目を細めた。 「……まぁ、旅っちゅうても、急ぎの用事があるわけやないんよ。せやけど、探しとるもんは、ある」 「……探し物?」 「うん。昔な、うちの村の灯守りやった親方が言うててん。“風に消えた灯は、どこかに落ちとる”って」 「……灯?」 「せや。風に吹かれて、地図から消えた村、記憶から消えた場所──そういうとこに、ぽつんと残っとる灯が、あるんやないかって。 ほんで、それが全部集まったとき、きっと“答え”に近づけるって、そう言うてた」 「答えって……何の?」 ラセルは少しだけ黙って、草の向こうを見つめた。 「……たぶん、“この世界がなぜこんなふうになったんか”っちゅうことやろな」 ──この世界。 名前が消え、記憶が曖昧になり、風がすべてをさらっていく。 ぼくはまだ、この世界の仕組みを何ひとつ知らない。 でも、ラセルの言葉には、確かに“知っている者”の重さがあった。 「うちの親方な、数年前に風の門を越えようとして、名前が消えてもうた。 でも、記憶のどっかに、“風の裏には何かある”っちゅう確信があったみたいやね」 「……それで、ラセルはその灯を探して……?」 「うん。わいはのんびり屋やけどな、約束は守りたいんよ。 あの人が信じとったもんを、自分の目で確かめたいんや」 やわらかな笑顔の奥に、ひとつの強い芯があった。 その瞬間、ぼくの胸の奥で、何かがちくりと鳴った。 ──好きだな、この人。 まだ“恋”とか、そんなのじゃない。 でも、確かにぼくは、この大きな背中に安心している。 惹かれている。 そのとき、ふいに強めの風が吹いた。 「あっ──!」 ぼくが手にしていた地図がひらりと宙に舞い上がる。 「わっ、待ってっ!」 慌てて追いかけたぼくは、足をもつれさせて転びかけた。 その瞬間、ラセルの腕が伸び、ぼくの体をしっかりと受け止めた。 「おっとっと……あぶなっかしいなぁ、まったく。怪我ないか?」 「……う、うん、大丈夫……」 ふわっと、ラセルの胸に顔が埋まる。 ──柔らかい。 そして、温かい。 なんだろう、この落ち着く匂い……。 「……君、ちょっと痩せすぎやな。ちゃんと食べなあかんよ」 ラセルが、ぼくの頭をぽんぽんと撫でた。 その手のひらは、大きくて、やさしくて── 胸の奥が、じんわり熱くなる。 「……ありがとう、ラセル」 「礼なんていらんよ。一緒に旅してる仲やろ?」 その言葉が、うれしかった。 ぼくは、ラセルと一緒にいる。 この人の隣を、歩いてる。 ただそれだけで、草原の風がやさしく感じた。 陽が傾き、空に茜が差し始めたころ、ぼくらは草の陰になった窪地に小さな焚き火をつくった。 ラセルは慣れた手つきで火打石を打ち、乾いた小枝に火を移していく。 ぼくは、彼の横顔をちらちらと盗み見ながら、なんとなく胸の奥が落ち着かなくなっていた。 「……焚き火って、いいよね。あったかくて」 「うん、そうやなぁ。火は、“灯”でもあるさかいな。心ん中の風、しずめてくれるんよ」 「……風の中で、ラセルは名前を守れたの?」 その問いに、ラセルはしばらく薪を見つめたまま、黙っていた。 「──実を言うとな。昔、一度だけ、忘れたことがあったんや」 「え……?」 「風の門に、仲間と挑んだときや。“あの先に道がある”って、誰かが言うたから、信じて進んだんよ。けど、門をくぐった瞬間──仲間の顔が思い出せんようになった」 「……でも、戻ってこれたんだよね」 「うん。灯をひとつ、拾ってな。それが“記憶を繋ぎ止める光”やった」 ラセルは腰の袋から、手のひらに乗るくらいの小さな瓶を取り出した。 中には青白い光が静かにゆらめいている。 「これが、“風に抗う灯”。……不思議なもんやけど、これがあると、気持ちがぶれへんのや」 「……きれい……」 瓶の光に照らされたラセルの輪郭が、なぜかとてもあたたかく見えた。 しばらく、火の音だけが草原に溶けた。 * * * 夜が深まり、風が冷たくなってきたころ、ラセルが毛布をふたつ重ねて敷いてくれた。 「ひとつはわい用やけど、君が寒かったら一緒に使ってもええよ。うち、毛深いしなぁ」 「……あの、ラセル」 「ん?」 「……ありがとう。ラセルがいてくれて、ほんとによかった」 「そうかぁ……そう言うてくれるのは、ちょっと……くすぐったいなぁ」 「──ドロシーちゃん」 「な、なに?」 「わい、今日の君の顔、すごくよかったと思うで。風と向き合って、ちゃんと生きようとしとる。……その顔、忘れたらあかんよ」 「…………」 「どんなに名前が薄れても、“今日の君の顔”だけは、わいの中に残る思うわ」 ラセルの手が、そっとぼくの頭を撫でた。 ぼくの心が、かすかに震えた。 「おやすみ、ドロシーちゃん。夢見、よくな」 その声に見守られながら、ぼくは毛布の中でそっと目を閉じた。 胸の奥で、あの不思議な“なにか”が、またひとつ灯った気がした。 ──それが、どんな名前を持つのかは、まだわからない。 でも、今夜ぼくは、ラセルの隣で安心して眠れる。 そのことだけが、今のぼくにとって、何よりも大切だった。


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