連絡事項。
・今日ゴジコン見に行きます。
・それと、5月6月のお題はデスギドラです。
・あと、マリは今月中に完成したらいいなぁ~と思っています。
(心が「死星の刻限」に囚われすぎてて、落ち着いてゴジコン見れる気がしないので
なんか吐き出そうとしてて、深夜テンションでガーと書いてたのがこれです)
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ここの全体公開記事でもあらためて
について、書いておこうと思うわけです。
こっちでは「感想」を書こうと思います。
(自分がブログに書いてたのは感想でもなんでもないなということに気づいたので)
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今回の話は、
何かを見ても、感想が「〇〇に見える」な人や
説明文に書いてあるのに「これ巨神兵だよね」で感想が止まってしまう人たちへの
思考の補助輪になるかと思います。
(この時点でうぜーと思った人はスマン だがしょうがないのだ)
(華音さん自身がこのような感想にウンザリしてるっぽいので)
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改めてこの「映画」と呼ばせていただきますが、
この映画を総括するなら、
やっぱ一種の技術的到達点のように思ったりします。
(華音さんがやってることは全部そうなんですが)
こういうモノを「どう」捉えるか、というのが色々あると思うわけですがー
考えてみると、 庵野秀明の「巨神兵東京に現る」だって、
その価値が 意義が 「分からない」人には「分からない」わけです。
・意味がわからない
・唐突すぎる
・脈絡がない
・林原のナレーションがどーのこーの
・イヌが変
・モブが変
・滅び? 知らんがな
・何がいいたいの?
そういう視点だけでみて、何も考えない人 脳が拒絶タイプの人、というのはどこにでもいます。
こういう意見が完全に間違ってると言いたいわけでもないんです。そういう部分もまた、あるにはある
でも、本当は「その先」があるはず。
それは「爆発かっけー」「巨神兵かっけー」というだけではない、その先のことも。
常に「その先の理解」があるはずなんです。
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庵野秀明が本当に「特撮博物館」でやりたかったのは、
それは、「古き善きミニチュア特撮技術の保全」ということだったはず。
そういう体制を作ること。 皆が「これは文化財だ」と認識するようになること。
それがお題目か建前かは置いといて、特撮博物館をやる意義は本当にあった筈。
(その上で予算をもらって"好き勝手"やるのがクリエイターなわけですが)
こういう事も、けなす人間、否定するだけの人間には一生わからないけど、
色んなスーツにせよ技術にせよ文献にせよ、国が守ろうとしないかぎり、捨てられ
消えていくばかりなのです。
(そういう「前提」を知ってるかどうかで人間の意識や捉え方は変わってくる)
(今現存しているキングギドラのスーツは~)
その必然性を感じて、庵野秀明は「特撮博物館というのをやろう」と思い立ち、
その上で 更にそれを成功・成立させるための客寄せコンテンツとして
「巨神兵~」という作品を作る必要性もまた、「感じ取った」わけですよね。
全てその上 そうした上で、「巨神兵~」は、
過去のミニチュア特撮技術で出来る限界点というのを、やれる限りやってみた。
そこにそのまんま、意義がある作品だと思うわけです。
これらが全て『やる側』の人間の、思考回路です。
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・・・
そういう「視点」から立ち返って見てみれば、
スケールがおかしいとか、
スピードがおかしいとか、
なんだかちょっと変に見える部分、なんだかイヌやモブがおかしく見える部分、
なんだかぎこちなく見える部分、
・・・
というのはどうでもいいというか
むしろそういう現実とのギャップの部分にこそ、意味があるような気がしてきます
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「昔の古きよきミニチュア特撮」には、なんらかの限界があります。そりゃあ
だから、
「よくよく考えたら水の粒子の大きさ、速度がおかしい」
「なんか動きがあんま良くない チャチに見えるところがある」
「なんかスケールが合わない」
「なんか・・・」
という部分はいっぱいある。
・・・でも、ファンはそこを気にしてない。 そこが「マイナス」に見えない
というかむしろ、 その、現実と違う部分・限界点をこそ
むしろ積極的に喜んで脳が摂取している ような気さえするのです。
見てる視点が違う。
チャチをチャチとして、摂取していない。
この辺が、全くソツのない最近のCG映像とは違う部分、なのかもしれません。
むしろ、完全じゃない部分の「差」こそが魅力であるように思うのです。
(更に、ミニチュア特撮だからこそ、何でも出来るCGでないからこそ
これ、どうやって撮影したの??? と今でも分からない部分があり
そこに感動・感嘆したりもするわけです)
・・・
・・・
ということ。
「現実の完全なシミュレーションは出来ない」、という大前提の上で、
「そこに辿り着こうと、もがき努力している特撮技術」という点で、
ミニチュア特撮には明確に存在意義があり、
ファンはそこを喜んでいる。
・・・
・・・
と、するならば、
「MMD特撮」というのにもまさに「そのような美点」があるような気がします。
というかこれは、他のいろいろなモノにも通じます。
フィギュアのコマ撮りによるストップモーションアニメにせよ、
手書きアニメにせよ・・・
「どこまでいっても完全な現実に見えるわけじゃない」というギャップと
「その上での変態技術」という部分に、人間は興奮するように思うわけです。
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「CG」という夢の技術が現れて、
ストップモーションの巨匠フィル・ティペットは「俺達は絶滅だな」とか言ったわけですがー
結局、今もなおストップモーションアニメはちゃんと生き残っていて、
なんならCGでストップモーション感を出そうとする人だって現れているわけです。 (自分がディアボロ2でやりたいことだってそうだし)
それは「化石」とか「本末転倒」という一言では、説明がつかないと思うわけです。
こういうところも、なにかMMDにも同じような部分がある気がします。
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MMDも「CG」だけど、実質リアルタイムレンダのCG という部分があると思う。
そこはチャチさだけなのか?低品質なだけに見えるのか?
なにか違う気がする。
「完全な実写そっくり、完全にソツのない、まったくもって現実のシミュレーションのようなCGムービー」
とは、何かがちがう。
「これがリアルタイムムービーとして流されててもおかしくなさそう」
そう思える感覚こそが、実はMMDの魅力なのではないか、という気がしてきます。
DMC3のムービーシーンは、敢えて全て「リアルタイムムービーのように見える」よう作られています。
(一部のシーンはPS2でリアルタイム不可能なので、実はプリレンダの差し込みだったりするのです)
(なぜプリレンダなのにわざわざリアルタイム「風」のムービーを差し込むのか? そこにまさに答えがあります)
「プリレンダでなんでも出来ることが分かってる美麗CGムービー」よりも、
「この表現リアルタイムでやっとる!って驚くようなムービー」の方が
脳が喜ぶ場合がある。
そんな逆転現象のことを、この時点のユーザー、開発者も分かってたのかと思います
制限された情報には、普通に意味がある。価値がある。
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・・・
改めて立ち返ってくる。
当時、庵野秀明の「巨神兵~」を見て
「なんかここがチャチイね」とか
「イヌが変」とか
「動きが変 最初からフルCGでやればいいのに」 とか
「宮崎駿から勝手に巨神兵借りて、やることが破壊だけかよ」とか
「この表現が変に見える」 とか・・・
そういう、否定、拒絶だけの視点の意見というのは 山程あったはず。
でもそんな意見、今、ここまで考えた上で振り返ってみると、全部
「やる側」の人間からしてみれば、全てがナンセンス。
・・・ということです。
(まぁイヌが変なのは、事実は事実でいいんですw)
(でも常に、「その先に思うこと」があるでしょ ってこと)
(別にいいよ、伊集院だって「イヌが変」は言ってたし)
(「特撮すごいのにわざとイヌをしょぼくしてるのが分からない」 まぁねぇw)
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華音さんの MMD技術の最先端 最高峰のような作品。
「死星の刻限」でも、なにか同じような構図を感じる気がします。
このような作品を見て (説明文も読まずに)
「なんだ、巨神兵~と同じことしてるだけじゃん」としか思わない人はいるでしょうし、そこで感想や分析や理解が「終わる」人がいる。
その言葉をそのまんますぐ、書き込んでしまう人もいる。
破壊シーンを純粋に喜んでいる人もいるかもしれない。
「〇〇に見える~」しか感想がでてこない人もいます。
むしろそういう人ばかり。
世の中の9割くらいの人は感想が「〇〇に見えた」しか出てこないのかもしれない?
でもやはり、それはそうではない。 それだけではない
認識・「理解」というのはそこで止まらないはずです。
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MMDでの表現の限界に挑戦しつづけるってのはそれだけで意味があると思うし、
実際にそこから産まれた映像というのは、
なにか、世の中にある「理屈上はもっと高品質でリアルな動画たち」 よりも
なぜか、強く脳に訴える要素が本当にあると思うのです。
この部分を、自分は今まで上手く言語化できてなかった気がします。今も?
(あれ?言ったことあったっけ?)
でもこれは、ストップモーション技術とかと「同じ」なのだと気づきました。
ストップモーションアニメの動きは、完全に生物とみまごうほどには
滑らかではなかったりする。
(これをCGで補間して滑らかにしてしまっている動画もあるけど)
それゆえに、実物の人形を人間が連続して「必死こいて動かしている」ということが
脳に伝わってくることがあるはず。
人間はそれを理解しているから、滑らかなCGアニメよりも、
動きの不連続なストップモーションアニメという情報に興奮するんじゃないかと思うわけです。
現実とイコールじゃないからこそ そこには「良さの情報量」があり、
だから今も、ストップモーションアニメは絶滅することなく愛され続けて、存在しているのです。
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CGの世界でも「リアルタイム萌え」という嗜好がある気がします。
これは自分もメタセコイアの画面みてて思います。
最終的にレンダリングした結果よりも、
そのような結果よりも、はるか「それ以前の段階のほうがなぜか興奮する」ときがあるのです。 確実に
「なんだかリアルタイムプレビューにこいつがいる」という良さ。
MMD上で凄い表現を追求する、というのには、
このようなところに通じる意味があるとおもうわけです。
なんか、そういう話
それプラス、華音さんには、
(BlenderやUEで、凄いけどエタる人、いるわけです。それは自分がやってもそうなるだろうな、と分かる)
(「一作品凄いけどすぐやめちゃう人」もいます いろんな事情あるんでしょうが)
これですよ。
『〇〇が〇〇に見えた』という感想は、どうせやるなら、ここまで行きませんか?
自分にはそう見えました。
ワシにはそう見えた。
やはり「MMDの真の力」「真の魅力」は、そういうところにあるなと思うわけです
(まぁ、だったら我々は、ワケもわからず凄い凄いと騒いでいれば良いようにも思いますが)
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・・・
(あれ?また「普通の感想」と違う?)
(だってさ、本当に当てられたら、ただの感想にはならん気がする。)
(純粋な破壊の化身のゴジラいいよね… いい…)
(普通の感想なら、一行で十分でしょう)
(「巨神兵のオマージュ」ってのが分かった上での、本当の、本当に感じ入る部分ってのは、こういう部分だと思うんだけど)
(ワシがこの世で一番、華音さんの凄さと強みを分かってるんですが?という話)
華音さんのやることはすべて、MMDのマイルストーンです。
技術的到達点であり、それが、これからもすごくなっていく・・・
本当にありがとうございました。
深夜テンションにて