人形美術館
Added 2025-08-02 04:22:02 +0000 UTC山の緑は青々と繁っている。山道は広葉樹のカーテンで覆われて、真夏の光は全くと言っていいほど入ってこない。スキー場のある山の上へと登る道を逸れて、脇道に入ったのだから仕方がないとはいえ、整備がまるで行き届いていないこんな悪路が、よくも残っているものだと感心する。 昨日まで出張の仕事で近くの街まで来ていたのだが、ついでに何日か休みをとって観光でもして帰ろうと、ホテルが安い郊外に宿をとった。1日町を歩いてみたが、期待したような目新しいものには出会えずじまい。こうして車で近くの山までドライブしてきたというわけである。 いよいよUターンを考え始めて、切り返せるスペースを探していると、小さな洋館が見えた。砂利の駐車場には車が一台も停まっていない。丁度いいところに、と思って車を入れて停めた。エントランスの脇には、「人形美術館」とえんじ色の看板が掲げられている。 変わり映えのしない鬱蒼とした森の風景にも飽きてきたところだったので、車を降りて、見てみることにした。どうせ、車も停まっていないし、休館しているのだろう。どこかの金持ちの道楽で建てられたまま、放置されているのかもしれないとも思ったが、どうも玄関周りの掃除は行き届いているようだ。 ドアには、「Open」の札が掛かっている。まるでお化け屋敷に入るような心持ちでドアノブを捻ると、鍵はかかっていないようで、少し軋む音を立てながら開いた。ちょっとした画廊くらいの雰囲気の部屋が奥に見える。屋内は少しだけ涼しいが、しっかり冷房が効いている風でもない。一筋汗が背中を伝った。当然のように職員はいない。部屋に向かう廊下の前に木戸があって、チケット入れと書かれた箱がついている。無人営業なのだろう。なるほど脇には券売機もある。 チケットを買ってみようと、そちらに向き直ってギョッとした。券売機と、木戸の間には、ガラスのショーケースがあった。驚いたのはその中身だ。まるでフィギュアみたいなアニメっぽい顔の人形が立っていた。クラシカルなメイド服を着ている。ふわりと膨らんだ黒のスカートは足元まで伸びていて、純白のエプロンの前で、軽く手を重ねている。よく見ると、その肌は、陶器やプラスチックではなく、布のような素材でできているようだ。長袖の布地は、かなり良い生地で仕立てられているようだ。山の中とはいえ真夏の昼下がりに、冷房のあまり効いていない室内だ。人間のガイドなら、こんなに分厚いユニフォームにはできるわけもないが、人形ならわざわざ衣替えしてやる必要もないということなのだろう。 扉の脇には、音声ガイドと書いてある。利用可能のランプがついていた。お金を入れるところがあるようだが、美術館によくあるような、音声が出る機械が出てくるところが見当たらない。しかし300円と大した値段でもないので、試しにとお金を入れてみることにした。チャリンと、木箱の底に小銭が落ちる音がした。ボタンをしっかりと押し込んだ。 ガチャリと、重い音がしたかと思うと、ショーケースの扉が開いたので、思わず飛び退いてしまった。メイド服の人形が丁寧にお辞儀をした。心臓がうるさいくらいに早鐘を打っている。一瞬、妖怪や幽霊、といった言葉が脳裏を去来する。綺麗な折り目がついたヘッドドレスから目が離せなかった。 コツリ。メイドのローファーが床を踏む音が静かな廊下に響く。意識から外れていた蝉の声が聞こえてきた。メイドは、黙ったまま私に機械を手渡した。イヤホンがついたリモコンのようなものだ。メイドを見ると、どこから取り出したのか、ラミネートされた札を胸の前で掲げている。大きく、ゼロの数字が書いてある。 「0を押せばいいの?」 メイドは黙ってこくりと頷く。綺麗に切り揃えられたボブの黒髪が、首の動きに合わせてさらりと揺れた。アニメのキャラクターのような大きな目に浮かんだ綺麗な緑色の瞳は微動だにしない。よく見ると、瞳の輪郭やまぶたの影の黒いところだけ、穴が空いていて、その奥に黒い布のようなものが貼られているようだ。微笑を湛えた口元には一切の隙間は開いていなかった。 手元に目を落としてボタンを探す。指示通りにゼロのボタンをしっかりと押し込んだ。ブーンというノイズが、目の前の人形から聞こえる。 「本日は当美術館へおいでいただきありがとうございます。」 程なく流れ出した音声に合わせてメイド人形がお辞儀をする。 「当美術館は、人形をモチーフにしたアート作品を展示しております。観て、触れて、感じる、をテーマとした芸術体験を提供することを趣旨とした展示になっておりますので、お気軽にお楽しみいただければ幸いです。それではご案内します。」 人形は、廊下を歩いて部屋の入り口に立つと、どうぞ、というように手のひらで部屋の中を差し示した。その肩は呼吸するように上下していた。