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並び咲く純白のユリの花 #8 梨花の目覚め

8.梨花の目覚め  どこからか声が聞こえる。  誰かが、何かを、話している。  水を通したよう、くぐもった声。 「……マトリクスは……だから……記憶も……」  なんだろう。  わからない。  意識がはっきりしない。  それは、いつもと同じ。  私はただ聞いているだけ。 「……筋力は……ある程度……できる……」  やがて声はだんだんと遠ざかっていく。  それとともに私の意識は徐々に覚醒し……目が覚めた。  うっすらと目を開く。  いつもと同じ天井が目にはいった。  殺風景な病室の天井だ。  それなのに何かが違っているような気がして、私はしばらくの間、ベッドに横たわったままでいた。  なんだかずいぶんと長い間、眠っていたような、心持ちだ。  やがてそっと、身を起こす。  なんとなく、身体に違和感を感じた。  だがそれ以上に、何だかとても清々しい心持ちだった。 「え……?」  自分の体を見下ろして私は目を白黒させた。   (な、なんで、素っ裸なわけ?)  少しずつ記憶が蘇ってきた。 (……そうだ、私はおかしくなってしまっていたんだ……あの、おぞましいもののせいで……)  そこまで思い出してから、私ははっと気がついて、おそるおそる自分の股間に目をやった。  何も、ない。  私はほっと息をついた。  アレは誰かに……たぶん奏子に、取り外されてしまったのだろう。  だから、今私はこうやって思考力を完全に取り戻しているのだ。  ついさっきまで、あまりの気持ちよさに意識を無くしてしまうまで、私は文字通りアレの虜になって、このベッドでひたすら快楽を貪っていたのだ。  私はもう一度ほぉっと、ため息をついた。  すごく落ち着いている。  実に平静な気分だった。  奏子にアレを渡されてからという者、私はすっかり中毒のようになっていた。  もどかしいほどアレを欲する気持ちが、今は完全になくなっていた。 (ていうか……)  なんで自分があんなに気が狂うようにアレに依存していたのか、さっぱり実感がわかない。  確かに体験したことのないような気持ちよさと、どんどん頭がバカになっていくことのスリル混じりの解放感、のようなものを感じていたし、奏子の前でそんな自分のブザマ極まりない姿を晒すことに得も言われぬ興奮を覚えてはいたのだけれど。  それがきれいさっぱりなくなって、今はそれどころか……そう感じていたことに対する忌避感というのか、何というのか、そういう感覚にすらなっている。 「あ、目が覚めたみたいね」  戸口のところから声をかけられ、そちらを見ると奏子だった。  脱衣籠を抱え、いささか固い面持ちで私のことを見つめていた奏子が、口を開いた。 「ねえ……あなた、自分の名前、ちゃんと思い出せる?」  その問いに私は少し唖然とした。  だが無理もない。  あれだけの痴態を晒してしまった後では、そんな聞き方をされてもしようがない。  私は、深呼吸をしてから奏子をじっと見つめ、ゆっくりと答えた。 「……私は、不見原 、梨花だよ……奏子」  奏子の顔に微笑みが浮かんだ。  私が何事もなく元の通りに戻ったことに、安堵しているようだ。  奏子はベッド脇まで近づいてくると、脱衣籠を私の横に置いた。 「はいこれ。梨花ちゃんが着てたやつだよ」  ここに来るときに私が脱いだ衣類一揃いがきれいに畳まれて籠の中に入れられていた。 「あの……奏子……」  私はおずおずと口を開いた。  気のせいかなんとなくまだ、呂律が回りにくく感じる。 「……アレはどうしたの?」  奏子は笑みを浮かべたまま首を傾げた。 「アレって、何のこと?」  奏子のとぼけぶりに、もう一度問い質そうと私が口を開くのを遮るように、奏子は言った。 「おかげですっきりしたでしょ。そう言ってなかったけ?」  言葉を遮られてしまった私は、奏子のその言い分を反芻した。  むろん奏子が最初に言っていた通りだ。  それは、一連のとんでもない行為は……いや、とんでもない行為自体は私が自分でしていたことなわけだけど、つまり、この数日間の滅茶苦茶な出来事は、私の鬱屈を解消するためだった、ということだ。  あの現実離れした機能を持った道具を奏子がどこで手に入れたのか、とか、そもそもあんな物が存在すること自体信じがたい、とか、そういう疑問は、浮かぶものの、結果として今の私がいつになく清々しい心持ちに至っていることは確かだ。  いつも感じていた重苦しい気持ちは、少なくとも今この瞬間は雲散霧消していた。  そうなるために、あれだけ気の違ったような行為に没頭することが、必要だったとでも言うのだろうか。  だが、その通りだとすれば、私は奏子に感謝しなくてはならないのかもしれない。 「さ、そろそろ行こう。梨花ちゃんはもう、ここに居る必要は、無くなったんだから」  奏子の言葉に私はハッとした。  ここがどういう場所か思い出し、思わず私はキョロキョロとあたりを見回す。  私の横たわるベッド以外には何一つ置かれていない、格子の入った窓だって開くことはない、殺風景な病室だ。  考えてみれば、奏子が一体どうやって私をここに連れてくることができたのか、ということも大きな疑問のひとつであった。  私が知っているのは、奏子の親がこの場所と関係のある医師であることだけだ。  そのことは、とてもではないが、奏子がここに自由に出入りして、あまつさえこんな風に使うことができることを意味しない。  だがそこまで考えたとき、私の目前に差し伸べられた奏子の手が目に入った。  奏子の顔を見ると、彼女は優しい眼差しでこちらを見つめていた。  少しの間考えることを止めて、私は奏子に従うことにした。  私はそっと手を伸ばし、奏子に支えられるように立ち上がった。  どうしてか体のバランスを崩しかけながらも、なんとか立ち上がる。  奏子の言う通りだ。もう私は、こんな所に長居する必要はない。 -------------------------------  施設の建物を出た私は立ち止まり、ゆっくりと周りを見渡した。 「どうしたの?」  横に立つ奏子が私に問いかけた。 「何だか……」  言葉が途切れたのは、想いが湧き上がってくるからだ。 「何だか、不思議な感じ……周りの景色がすごく、鮮やかに見えるの……どうしてだろう……」  私は感じたことを素直に口に出した。  目に映る景色だけではなかった。  息を吸い込むたびに感じる空気の匂いも、樹林帯からそよぐ風の音も、何もかもがとてつもなく鮮烈に感じられた。  世界の美しさに、私は感動していた。  それはまた、今の私にとって希望に満ち溢れたものに感じられた。 「きっと、ストレス解消、できたからじゃないの?」  奏子の単純な答えが、真に的を得ているのかはどうでもよかった。  私はこくんと頷いて、それからつぶやいた。 「ここは……どこだっけ?」  そう、どうしてなのか私がいるこの場所は、まったく知らない場所だった。  それでいて、とてもよく知っている場所のような、気持ちもある。  どうして私は奏子とふたりで、こんな見知らぬところにいるのだろう。  奏子は微笑んで首を傾げてみせた。  私は奏子に感謝しても良いのかもしれない。  たぶん私は、生まれ変わったのだ。 (つづく)


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