午前7時前。東京の朝はすでに始まっている。
内海は、いつものように都内の小さなワンルームマンションで目覚まし時計よりも少し早く目を開けた。
前日も仕事で深夜近くまで残業し、ようやく眠りについたのが午前2時過ぎだった。
もっとも、起き上がっても気怠い倦怠感と、これから訪れる満員電車、そして終わりの見えない業務を思うと、憂鬱な気分が覆いかぶさってくるのは変わらない。
「はあ……」と深いため息。
窓の外から聞こえてくるのは、遠くを走る車のエンジン音と、隣のビルに住む誰かが始業前に掃除をしているらしいシャッターの開閉音。
内海は立ち上がり、淡々と支度を始めた。
「今日も仕事かぁ、、、」
彼女の勤めるデザイン会社は、都内のオフィス街にある小規模な事務所で、一応名目上は「デザイン事務所」だが、
実際の業務は下請け的な細かいデザイン修正や雑誌、チラシのレイアウト制作、時にはクライアントの無茶な要望に応えた深夜までの修正対応が当たり前となっている。
彼女は職場に着くと、朝礼や無駄に長い上司のスピーチを聞き流し、パソコンに向き合い、黙々とデザインのブラッシュアップや画像修正、文字組みの調整などを行う。
会社にはあまり仲の良い同僚はいない。もちろん話しかければそれなりに受け答えはするが、コミュニケーションが苦手で、いつも愛想笑いでその場をやり過ごしてしまう。
声をかけられれば「はい、わかりました」と言うものの、断れずに仕事を抱え込み、結果として遅くまで残業する羽目になることが多い。
昼休みが終わり、午後の眠気が襲い始める。
時計を見ると午後3時過ぎ。作業をしながら、集中力が切れかけていることに気づく。
「(つかれたなぁ、、、)」
目の奥が重く、肩は凝り固まり、腰が痛む。こんな状態で続けても効率は上がらない。
「(コーヒー飲もう、、、)」
そう考えた内海は周囲を見回し、上司や同僚が別件で忙しいタイミングを見計らって席を立った。
給湯室はオフィスの奥まったところにあり、小さなスペースでコーヒーメーカーとシンク、簡易的な冷蔵庫が置かれている。
誰もいない時は、ここはささやかな逃避場所だ。会議室ほど閉鎖的でなく、オフィスフロアほど視線を感じない絶妙な隠れ家である。
内海はそのスペースに入ると、ドリップパックを取り出してコーヒーメーカーにセットした。
「はぁ…」
内海はふと気を抜いた。仕事に追われ続けて、常に周囲を気にして、愛想笑いを浮かべ、断れないまま業務を積み重ねている自分。
そんな状態からほんのわずかに離れ、心の壁を取り払ってしまった一瞬。
その「気の緩み」は体にも及ぶ。
思わず勢いよく、それは出てしまった。
「ブゥ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!」
強烈な爆音放屁が炸裂する。
給湯室の静かな空間に一瞬にしてオナラの匂いが充満する。
「あっ…////」
思わず声が漏れる。
「(どうしよう、、、オナラ出ちゃった、、、)」
もし今、誰かが入ってきたら……。
そんな不安が脳裏をよぎったその瞬間、外から男の声が聞こえた。
「なあ、休憩がてらコーヒー淹れてこないか?」
「おう、いいな。さっきまでバタバタしてたし、一息入れようぜ。」
男性社員二人の声だ。給湯室へ向かってくる。
「(やば、、、このままここにいたら、、、)」
当然、自分が犯人だとバレてしまう。
絶対に避けたい。彼らが入ってきて、この臭いに気づいたら……想像しただけで、冷や汗が背中を流れる。
すぐさま給湯室を抜け出し、慌てて物陰に身を潜め、彼らに気づかれないよう息を殺した。
「あれ、誰か今出ていった気がするけど……」
「そうか? まあいいさ、早くコーヒー淹れようぜ。」
男たちはそのまま給湯室へ入っていく。内海は物陰から、その光景を盗み見る。
男性社員二人は30代くらいだろうか、部署は違うが顔は知っている程度の同僚だ。
彼らは給湯室の中に足を踏み入れ、そこで立ち止まった。
「くっっっっさ!!!!!!!」
「おい、何だよ、この臭い! 腐った卵でも置いてあるのか!?」
男たちは鼻を押さえ、顔をしかめている。コーヒーの香りなど一瞬でかき消されるような強烈な悪臭が充満しているのだ。
彼らはまるで現場検証でもするかのように、シンクや冷蔵庫まわりを見回し、不審なものがないか確かめ始めた。
「うぅ…臭え……」
「誰かが屁こいたのか!?」
苦々しい顔をしている二人を見ながら、内海はますます冷や汗が出てきた。
「(うう、、、ごめんなさい、、、)」
内海は心の中で謝罪をし、すたこらと自分の席へ戻ったのであった。
※オフィスではその後、『給湯室の異臭事件』としてちょっとした噂になった。