第1章 第六話
Added 2025-05-27 08:56:37 +0000 UTC『それでも世界は回っている -OZ-』第1章「目覚めの草原」 第六話 ⸻ 第六話「君のことは忘れてしまうけど、今はすごく覚えてる」 ⸻ その夜、ぼくはトカゲ獣人の青年の家に泊めてもらうことになった。 といっても、“家”というほど立派なものじゃない。 石壁と布の屋根があるだけ。でも、風を防げて、横になれる場所があるだけで、十分だった。 火を焚くと、彼は温かいハーブの葉を入れた飲み物をくれた。 少し酸っぱくて、あったかくて、それがやけに嬉しかった。 「どうして、こんな場所に住んでるの?」 そう尋ねると、彼はちょっと笑ってこう言った。 「ここが、誰にも忘れられた場所だからさ」 「……」 「誰かの記憶に残らないっていうのは、寂しいよ。けどね、時々ふっと現れる“旅人”と話すと、それだけで、自分の中にちょっとだけ色が戻るんだ」 その言葉に、胸がキュッと鳴った気がした。 「じゃあ……ぼくのこと、忘れないでよ」 ぽろっと、そう言っていた。 自分でも、どうしてそんなことを口にしたのかわからなかった。 でも、きっと、ほんの少しだけ甘えたかったんだ。 何もかもがわからないこの世界で、自分の名前を呼んでくれた“この人”に。 「……ごめん、忘れちゃうと思う」 彼は悲しそうに笑った。でも、そのあとこう続けた。 「だから、今のうちに……触れてもいい?」 「……え?」 指先が、そっとぼくの頬に触れた。 トカゲの皮膚は冷たいと思っていたけど、彼の手は、体温があって、ちゃんと温かかった。 「君の毛、ふわふわだね。やわらかい……あったかい……」 ぼくは動けなかった。 いや、たぶん、動きたくなかった。 「……ドロシー」 名前を呼ばれた瞬間、目の奥が熱くなった。 「この名前だけは、明日の朝まで忘れたくないな」 「……ずっと覚えててくれてもいいのに」 「それができたら、きっと……君を、好きになってたと思う」 ──そんな言葉で、心の奥がぎゅうっと締めつけられる。 名前も、顔も、全部忘れてしまうこの国の住人。 でも今だけは、たしかにここにいて、ぼくの名前を呼んでくれている。 「じゃあ……せめて今だけ、忘れないでいてよ」 そうつぶやいた声は、小さく震えていた。