第1章 第五話
Added 2025-05-27 08:54:57 +0000 UTCそれでは『それでも世界は回っている -OZ-』 第1章「目覚めの草原」 ⸻ 第五話「誰かの靴音が聞こえた気がした」 ⸻ 草の踏みならされた跡をたどって、ぼくは草原を進んでいた。 耳を澄ますと、遠くで風が木をゆらすような音がする。あれは……森だろうか? その前に、目に入ったのは──石造りの平たい構造物だった。 「建物……かな?」 腰くらいの高さの壁と、つぶれた門柱が残っている。 屋根はなく、内側は草が生い茂っていたけど、中央に石の井戸があった。 人がいた場所だ。間違いない。 けれど今は、誰の声もしない。 ぼくがゆっくり中に入ったときだった。 カン……コーン……。 どこからか、金属が地面に落ちたような音がした。 振り向く。誰もいない。 でも──いた。 「……君、旅人かい?」 声がした。背後だった。 振り返ると、そこにいたのは“トカゲのような獣人”だった。 小柄で、顔つきは穏やか。灰色の外套に、片耳には金の輪っかをしている。 「びっくりさせちゃったね。こんな辺鄙なところに来る子なんて久しぶりでさ」 「……あ、あの……」 「ん、名乗らなくていいよ。どうせすぐに忘れるから」 「えっ……」 「この辺の人たちってさ、“忘れる病”ってやつが流行ってるの。昨日会った人の顔、今日には覚えてない。ぼくもそうなんだ。たぶん明日には君の名前も忘れちゃう。でも、それでも構わない?」 ……そう言って、彼はにこっと笑った。 「せめて今だけ、誰かが“君を見た”ってことを、覚えてたいんだ」 胸がじん、とした。 それだけで、涙が出そうになるなんて思わなかった。 「……うん。ぼく、ドロシーって言う」 「……そっか。ドロシー。よかった。君の名前、今日だけでも覚えていられて」 ──忘れてしまう人たちの国で、名前を呼ばれた。 それだけで、ぼくはひとりじゃないって、ちょっとだけ思えた。